第二部 ジェイムズ経験論の周辺

第八章 心霊研究家としてのジェイムズ

Ⅰ 心霊現象を巡る諸情勢

 科学の洗礼を受けているわれわれ現代人にとって、いわゆる「心霊現象」なるものの存在性は一般的に疑問視されている。とりわけ、この「心霊現象」が、心霊主義者(spiritualist)の主張するように、「人の死後、その人のものと認められる霊魂の直接的な現出及び活動」であると定義されるに及んでは、頑固な実証主義者にならば懐疑の念がおこって当然と言えよう。
(1)
 ところが心霊主義者にすれば、心霊現象及びそれを信じて検証を行おうとする自分達の行為は確固たる信念に基づいているものであり、それをインチキだと見なし嘲笑している数多くの事実は耐えがたい誤解に基づくと考えるのである。彼らはそう言った事実の担い手に対して、どう言うものか、直接的には反論を加えない寛容さをもつのであるが、そのかわり一種の開きなおりを行っている。すなわち、彼らを嘲笑している人達は、はたして真の科学の洗礼をうけているのだろうか、あるいは科学の洗礼をうけていたとしても、ごく狭隘な科学的世界に固執する「時代遅れの人達」ではなかろうか、と言った具合にである。なぜなら、一昔前の唯物論者や科学者だけが頑固にも人間存在を単なるものと見るになんらためらってはいなかったと彼らは考えているからである。
 人間存在が単なるものではない生命現象であるとする最近の認識は、現代人が一つの反省期に入っている証左である。そうかと言って、心霊主義者が人間の存在形態の中に、肉体とともに、「エクトプラズム(心霊体)なる実体の存在を公認してはばからなくなったのは、やや唐突の感があるが、それでも今日の心霊主義者がこのエクトプラズムを信仰の対象としてではなく、科学の対象として把握しようとする探求心は、彼らを等しく心霊研究家(phychial researcher)と呼称せしめるほどまでの力を与えているのもまた事実である。
(2)
 私は今のところ心霊主義者でもなければ心霊研究家でもないので、数々の事実を紹介された後でもエクトプラズムの存在性については判断中止(エポケー)の状態である。それ故に、これから、私は「世界の心霊科学研究家がほぼ一致して認めている」と「心霊主義者」が言っているところの心霊現象に関する以下の十項目の基本認識についても判断中止のままに論をすすめたいと思う。
① 肉体の死後、人間は霊魂として生存しつづけ、意識的活動をつづけることが可能である。
② 人間の霊は、希薄な一種の幽体(エクトプラズム)を備え、だいたいにおいて生前の形態を保っている。
③ 右の幽体は、一種の実質と一定の重量とをもっており、適切なある方法を講じれば、これを目撃することもでき、また写真に撮ることもできる。
④ 霊は生時においても、肉体の内部に存在する一つの有機体であって、脳髄、神経、血管、心臓などをもっている。
⑤ 肉体の死後において、霊の居住する世界は、地球を包囲する幾層かに分かれた霊界である。
⑥ 霊魂と人間とのあいだにいろいろな方法でコミュニケーションを保つことが可能である。
⑦ 人間の霊は、生時においてある程度までその肉体を離れ、霊界の探検を行うことができる。
⑧ 物質的世界と霊の世界とは、密接な有機的関係をもっており、厳密な因果律によってしばられている。
⑨ 物質と霊とは、一般的に考えているように、根本的に違うものではなく、むしろ同一の根元から出発しているものである。
⑩ 心霊作用は人間の肉体その他の物質のうえに驚くべき力を発揮することが可能である。
(3)
 長文の引用になったが、この十項目の基本認識は本章をすすめていく上でたえず想起されねばならない背景となっている。われわれは、例えそれが唐突な感を与えようとも、心霊研究家が確固たる信念のもとで、検証しようとしている事実を忘れてはならないのである。
 ところでここで注意されねばならないのは、心霊研究家が学問的にエクトプラズムの検証を行ったとしても、その視点は純粋の哲学的なそれ、あるいは純粋の心理学的なそれとは異なっているという点である。いいかえれば(私の思い違いかもしれないが)、彼らはエクトプラズムを、究極的には、精神あるいはその作用の変容されたものであるとか、意識あるいはその作用の変容されたものであるとか見なさないで、彼らなりの科学的なカテゴリーで構成されているものと理解しているように思えるのである。しかし私の覚える唐突の感も、私が自然科学畑の人間ではなく、人文科学畑の人間であることに起因しているのかもしれない。彼らの検証のための絶えざる努力が、学問的厳密さの程度がどのようなものであれ、心霊現象に対する偏見なき判断に基づいているとするならば、同時代のわれわれとしては、それに対して謙虚であるべきかもしれない。それ故にエクトプラズムの存在性をただ一方的に否定する態度こそ、これまでの科学的態度の悪しき習性であり、それがこそ、見なおされるべき時であると、われわれは認識しなければならないのかもしれない。
 以上の観点から、頑固な心霊主義者でもない私が心霊現象に唐突さを覚えることなく、それを前向きの姿勢で理解しようとするには、魂の不死を要請する哲学、あるいは識閾下の合理的存在性を唱える心理学を糸口にするのが最も賢明な方法であるように思えるのだが、本章ではそれらの問題を直接的に取り扱うわけではなく、ましてや心霊現象そのものを論じることを目的とはしていない。本書の最後の章において、私は心霊研究家としてのウイリアム・ジェイムズそれ自身を取りあげてみようと思うのである。
 驚くべきことには、心理学者でもあったジェイムズが同時に心霊研究家でもあったことで彼は何のデメリットも受けていなかった。そればかりか、むしろ、プラグマティズムの普及者としての栄誉と同様に、心霊研究の科学的正当化を確立した功労者としての栄誉をも受けていたとの観さえあるのである。そう言った意味からしても、彼の思想を理解するにおいて、彼が心霊研究にも興味を抱いていた事実をあきらかにすることは、極めて重要なプロセスの一つであると言えよう。
 ただ、私がこのジェイムズに関連して思い出すのは、彼の『心理学要論』の訳者でもあった福来友吉博士であろう。この福来友吉もまた同じ心理学者でありながらも、心霊研究に興味をもち、日本におけるそれの「元祖」であると言われた人である。にもかかわらず、順風満帆のジェイムズとは異なって、彼はそのためにアカデミズムから白眼視され東京大学の教官の地位も捨てざるをえなくなった。「雲霞の如く簇る天下の反対学者を前に据え置いて余は次の如く断言する。透視は事実である。念写も亦事実である。」
(4)と言って己れの説を曲げなかった彼の苦衷の言葉は、事実に従う科学者の態度の現れでもあったが、知名人でありながら未だに郷土の市史にも取り上げられていない(と彼を認めるものは言う)のは、ジェイムズと違って彼が日本人であったが故なのか。
 それはともかくとして、福来友吉は『心霊と神秘現象』なる大著を著し、心霊現象に関する自説を内外の歴史的実情を把握した上で展開していたのである。
(5)その中では、ジェイムズからの引用も数多くなされており、彼もまたジェイムズからの影響をうけた日本人の一人であったことが窺えるのである。この著が彼岸にいるジェイムズの目に触れたなら、彼がどんな反応をするか、ジェイムズに関心を寄せる者にとっても興味のわくところであるが、本章のテーマからますます離れるので、それをさておいて、われわれはジェイムズの「心霊現象」に関する考え方の考察を始めなければならないだろう。

Ⅱ 科学の重要な部分としての心霊研究

 誰よりも経験論的立場に立とうと心がけ、それ故にヒュームをさえ克服しようと呷吟したプラグマティズムの普及者として知られるジェイムズが、実は神秘的な現象である心霊の研究に関心を払っていたということは、きわめて特筆すべき事柄であろう。この最初の科学的心理学者と言われ、且つ哲学者でもあったジェイムズに、一体、どのような思想的野心がうごめいたのだろうか。
 否、そこには彼の一貫した学的態度があらわれていたのであり、単なる趣味であったというにはあまりにも軽々な、事実の重みに対する賛美の心があったと言うべきであろうか。私の思うに、そこには(そしてヘーゲルの言いまわしをまねれば)最も現実的なものは最も神秘的であり、最も神秘的なものはある意味では最も現実的であるとする確信があったのではなかろうか。ジェイムズにとっては、現実とは自明なものであり、且つわれわれと共にあるものであるのであるが、そのことでもってわれわれが現実を知的に理解することはできないのである。それ故に事実(fact)は常に事実の神秘として了解されねばならなかったのである。
 実際のところ、このような考え方は論理的には導出され得ない性質をもっており、ヘーゲルのいう弁証法が形式論理学の領域を越えたものであるという考えが正しかったとするならば、多分に弁証法的でさえある。そしてジェイムズの考えに即していうならば、この考え方は論理を超えるビジョンの問題に帰された彼固有の学的態度の表明であったのである。そして、そこから逆の考え方、すなわち神秘的なものと言えども事実に対する尊敬の念を失わないならば、それを現実的(real)なものとして受けいれるという考え方が生まれてきているのである。
 さて、ジェイムズが心霊研究の分野でも中心的役割を果たしていたということは、彼の業績からも容易に判断せられる。たとえば、ジェイムズは一八八四年から八九年への五年間ロンドンの「心霊研究協会」の通信会員であり、それ以後死ぬまでその協会の副会長をつとめ、なかんずく一八九四年と九五年の二年間はそれの会長にまで就任している。
(6)また、ジェイムズの論文の中にも心霊現象の学問的考察を意図している論文が数編ある。中でも『心霊研究がなしとげたもの』(『信ずる意志』に収録)、『心霊研究家の決定的印象』(『追想と研究』に収録)及び小さな単行本になっている『人間の不滅性』はその代表的論文と言われている。ジェイムズのかかる活動は、G・マーフィとR・O・バローの言によれば、結局、心霊研究一般に対する四つの重要な事柄となって示されたのである。
 一つは、ジェイムズが心霊研究に対して一つの知的社会的地位を与えたことである。
 二つは、彼がアメリカにおける公的な心霊研究の基礎づけに重要な役割を果たしたことである。
 三つは、パイパー夫人という一市井の人間の中に異常な霊媒力を発見したことである。周知の如く心霊現象の典型は死者とのコミュニケーションである。それは死者の意思をある生きている人間(霊媒者)をして伝えさせるという儀式の方法によって具体化される。ジェイムズはこの霊媒者の行動形態が通常のわれわれにとっては確かに異常であるように見えるが、しかしながらそれはわれわれの世界における一つの事実であるということを市井の一夫人の存在によって例証しようとしたのである。
 四つは、理解不可能であるように見えるものが、どうにかすれば直面せられ、考え通され、そして相関係せられるに違いない時に、諸事実の厳粛な直面者が仮定するに違いないところの心的態度に関する一つの「根本的経験論」を示したということである。
(7)
 このマーフィとバローの主張でもあきらかなように、ジェイムズの心霊現象に対する興味は決して趣味的なものではなく、彼の哲学と密接につらなっていたと見るべきであろう。彼の哲学については拙著『ジェイムズ経験論の諸問題』(法律文化社)で多少なりともあきらかにしているので、ここでは言及しないが、今、私の懸念するのは、ジェイムズの真摯な意図が、それにもかかわらず、表面的な次元で受けとられ、単なる好奇心のなせるわざにすぎないと見なされはしないかという点である。事実、マーフィとバローも先程の四点から次のような考え方を導出している。「ジェイムズの事実に対する休みなき激しい探究ないしはもっと広く新しい経験に対する彼の探究は、その時代のアメリカの思想のきわめて特徴的な精神のパイオニア的素直さと粗野さの反映としてあらわれている。」
(8)
 勿論、われわれはこのマーフィとバローの指摘を誤っているとする何の根拠ももってはいない。それは事実であるし、ジェイムズの心霊研究についての正しい評価でもあると言われよう。しかし、ジェイムズの根本思想に触れてきた者であるならば、ジェイムズの心霊研究が彼の根本思想の現実的証左ないしはその応用であるに違いないと判断し、そこから心霊現象が一つの経験的事実として彼の哲学的思索の対象にされざるをえなかったという風に理解するに違いないであろう。
 以下、私はそれをあきらかにしようと思う。まずジェイムズによって、心霊研究は「科学の重要な部分
(9)(傍点は私による)であると見なされている点があげられる。この考えは、エクトプラズムの存在を信ずる心霊主義者のそれの如くジェイムズの信念の表明にすぎず客観的事実を示すものではないかもしれない。従って、この考えを他人に押しつけるということはジェイムズ自身も考えていなかった模様である。しかしながら、心霊研究が個人の体験実例によって具体的になされるという事実から、それが科学的に考察されえないと決めつける理由はなにもないと彼は考えていたのは確かである。
 それでは彼の心情の中においてなぜに心霊研究が「科学の重要な部分」であるとされたのだろうか。それは心理学が心的生活の科学であると言われるように、心霊研究がある意味で心的生活(たとえそれが心的現象の神秘な性格をともなっているとしても)の一つのあるいは複合した現象及びその現象の条件を考察の対象としているからである。
 だが、これとても心霊研究が科学そのものの中に包摂されるということを決めつけるに不充分である。むしろここでは心霊現象が科学的態度でもって取り扱われうるというのが適切な理解の仕方であろう。この際科学的態度とは具体的には何をさし示すのだろうか。それはいかなる現象と言えども偏見なく事実を事実として受けとる態度の意であり、その事実が神秘的である故をもってそれを追求することが非科学的であるとしてはいけないということである(その意味では、かの心霊研究家と言える人達の態度とは一致しているかもしれない)。
 われわれには一般に神秘的なものに対して、はじめから科学的に見ようとする態度を放棄する傾向がある。それは神秘的なものが存在の自明性を欠いていると見なされるからである。
(10)だが存在の自明性を欠くからといって、神秘的なものに対して偏見をもってよいということにはならないのである。そこでまずジェイムズは次のように判断する。「一般的に神秘的と呼ばれる大部分の現象ほど侮辱的な科学的無関心(scientific disregard)でもって普通取り扱われている未分類の残余の部分はない。」(11)この裏の意味はあきらかである。神秘的なものほど科学的関心でもって、そして事実を事実として見る態度でもって取り扱われるべきだということである。
 だが、ジェイムズはこう言った考え方にのみ基づいているのではなかった。彼には一つの哲学的な視点が洞察されていたのである。それが前述のように、平明な事実であれ、神秘的な事実であれ、事実そのものが神秘の実在であるという認識であった。ジェイムズはかかる認識にたって、さらにそれ以上に、神秘的な現象そのものの中にこそ事実の本質が隠されているのではないかと考えた。それが彼をして心霊研究に本格的にとりかからせたのであろう。
 その橋渡し的な役割を果たしていたのが、ジェイムズの宗教観であると言えるのではないだろうか。彼によれば宗教的経験の本質とは、われわれが他の場所では出会うことのできない宗教的経験の中のある要素ないしは性質であった。「そのような性質は勿論、最も偏った、最も激しい宗教的経験の中において最も顕著であり、気づきやすい」
(12)とジェイムズは言う。
 このジェイムズの主張は事実を事実として受けとるある意味での消極性をともなった科学的態度から積極的なそれへと移行する心の変化を示しており、自らの意志でもって事実を見きわめようとする姿勢をあらわしている。そしてこれらの性質に神秘的な特徴が付加されたものとしての心霊現象は、まさに心的生活の本質を端的にあらわしていると彼には思えたのである。それ故、ジェイムズの言う個人的宗教的経験と心霊現象は意識の神秘性が問題にされているという意味において、そしてその神秘性が知的に解明されえないで、われわれの生の直接的事実のあらわれであるという意味において不可分の関係にあると判断されたのである。

Ⅲ 死後の世界を信じたジェイムズ

 次に心霊研究はジェイムズの安宙観、世界観を説明するのに最もよく貢献していると見られるふしがあった。もともとジェイムズの有限主義的な哲学においては、たとえば真理の問題にしても、真理はわれわれの実際的な精神がそれの全体を知るにはあまりにも大きすぎるものとして考えられていたし、また生をもつわれわれ自身の存在も「大海の中の孤島、森の中の木のようなもの」
(13)であるから、われわれがその無限ないしは全体の像をそう簡単には把握できないことが幾度となく力説されていた。そしてその上にジェイムズはわれわれ自身の生活の外側にあると考えられる対象を内的に経験的な性質に帰属させる、いわゆる汎心論的な考え方を支持していたために、すべての問題をわれわれの意識の問題の観点から考察しようとする傾向があった。
 これらの考えを結びつけた場合、ジェイムズの考え方の典型的なものは、次のようになってくる。「われわれの『正常な』意識はわれわれの外的な地上の環境への適合のために外接せられている。しかし、その壁は個々の点において弱々しく、かなたからの発作的な影響がもれてきて、別の検証しがたい共通的結合を示している。」
(14)
 あるいはジェイムズの別の言葉を引用させてもらえば、一般的には、次のようになる。「この世の経験を構成するいわゆる自然の秩序は全宇宙の一つの部分にすぎないし……この可視的世界のむこうにはわれわれが積極的ななにものも知らないが、しかし現在の人間の生活の真の意味が関係している見えない世界が広がっている。」
(15)われわれはこれらの考えが、一言で言えば、われわれの意識はより広い霊的環境と連続している、というテーゼを導きだしているのを容易に察知できるであろう。
 だが他方、そこにはわれわれが注意せねばならない点がある。正常な意識ないしは意識的自己が、異常で神秘的なものないしは見えない世界と連続しているということは、ジェイムズの経験のとらえ方からは一応認められたとしても、そこから次のような疑問が生じて来はしないだろうか。心霊現象を認めるということが、死後の意識を認めるということであるならば、前者の考えから直ちに後者の考えを導出するのは飛躍ではないだろうか、という疑問である。
 前者の考えは彼にとっては生の次元に還元された問題であり、従って神秘的なものを潜在意識的ななにものかという生ある存在の一つの様態と理解しても何の不思議もおこってこない。しかるに後者の場合は生と死を連続的なものとして取り扱おうとするだけに無理が生じる。すなわち、ジェイムズが生の次元に立っている限りにおいて、心霊現象は彼の論理的観点からは不可能と見なされなければならなくなってくるのである。
 そこで問題になるのは、そもそもジェイムズは死後の世界を実在的なものとして見なしていたのであろうか、であり、ジェイムズの信ずる意志は死後の世界をも実在的たらしめることができるのであろうか、である。
 結論的に言えば、ジェイムズはひかえめながらも死後の世界の存在を信じていたようである。否むしろ死後の生活の存在を他の哲学的仮説同様に一つの仮説として採用し、間接的ではあるが彼の著である『宗教的経験の諸相』や『多元的宇宙』の中でそれを訴えていたとも言えるであろう。ジェイムズはそこにおいて、われわれ自体から離れた、宇宙の中にあるより大きな意識というものを想定し、われわれの小さな意識は死後にはそこにたち戻るという形で信じていたのである。
 ジェイムズのかかる信念は、他方宇宙に永遠の意識が不動的に存在していることを認めているという意味において、純粋に哲学的な論述のニュアンスとは異なっている。しかしながら、それが何であるのかについての知的探究を放棄しているために、実体としてあきらかにされてはいないし、そのことについて、ジェイムズ自身重要な問題だと考えていない。とはいえこのジェイムズの態度は機能主義的なあるいはプラグマティックな考え方に起因しているのであり、その点は実体論的な合理論的な考え方に基づかないのであるから、われわれはそのことについてとやかく言えないのかもしれない。いずれにしてもジェイムズはそこから人間の不滅性を導出しようとしたのである。

Ⅳ 人間の不滅性に関するジェイムズの証明方法

 それはいかなる考え方に基づいていたのであろうか。人間の不滅性とは、端的に言えば、われわれの脳髄が存在しなくても、考えないしは意識は滅びないということである。この考え方は勿論人間の不滅性を示す一つの考え方であり、心理学を学んだジェイムズにとってはふさわしい規定である。われわれはこの観点にたってジェイムズがどのようにして意識の不滅性を信じていたかをあきらかにしてみよう。
 まずジェイムズにとっても「考えは脳髄の一機能であった」。
(16)しかし、脳髄の一機能であるということは一体何を意味するのであろうか。たいていの心理学者や生理学者はその機能を生産的機能としてのみ考えている、とジェイムズは考えた。これは一般的に唯物論的な考え方の人によく認められる考えである。
 その考え方に従うと、必然的に以下の結論が導かれざるをえない。すなわち脳髄が意識を生産している限り、脳髄の死とともに意識も生産されなくなる、という結論である。従って「考えは脳髄の一機能である」というのは、「蒸気は湯わかしの一機能である」ないしは「光は電気回路の一機能である」という場合に意味されているのと同じ内容をもってくる。なぜならば蒸気ないしは光は、湯わかしないしは電気回路によってある結果がつくりだされたものとして考えられるからである。その場合、極端に言えば、脳髄は「コレステリンやクレアチンや炭酸ガスを生じさせるのと同じように、その内部において意識を生じさせる」
(17)と考えられているのである。
 しかしながら、ジェイムズは物質的自然の世界においてこの種の生産的機能だけがあるのではないと考えた。なぜならばそこには「解放的あるいは許容的機能や転移させる機能」も認められるからである。たとえば石弓の引き金は解放的な機能をもつ。それが弓糸をこらえている障害をとり除くと、弓をその自然の形につれもどす。色ガラス、プリズム、屈折レンズは転移させる機能をもつ。光のエネルギーはどのようにつくりだされるにせよガラスによって色がふるい分けられ制限されるし、レンズやプリズムによってある通路と形へと決定される。
 ジェイムズはかかる自然の世界の実例をあげながら、脳髄にもそのような機能のあることを認めようとする。
 「われわれは、考えが脳髄の一機能であるという法則について考える時、生産的な機能のみについて考える必要はない。われわれは許容的ないしは転移させる機能(transitive function)をも考慮する資格をもっているのである。
(18)そうジェイムズは言うのである。
 これは何を意味するのか。たとえば脳髄が転移させる機能であるとされた場合、現存する意識はどこかある存在から伝達されてきた、と考えられるのである。さすればこの意識は、丁度プリズムがなくても光は光として存在するように、脳髄がなくても存在すると言われねばならないのである。
 このアナロジーがはたして死後の世界におけるわれわれの意識を最終的に保証しているかどうかは疑問である。それはただ死後の世界の意識が不滅の意識としてあるらしいということを伝えるだけであり、その表明の根拠をも伴っているわけではない。そしてわれわれが脳髄の転移機能説を認めることによって、最大限の好意的な理解をするならば、われわれの魂の生とは脳髄の機能にすぎず、精神はそれに依存することを認めた上で、それでも「この自然生活によってそのような脳髄への依存は決して不死の生を不可能にしないし……そのことは来世においてベールの背後にある超自然的な生と全く矛盾しないであろう」
(19)という表明を認めるぐらいのものである。
 だが、これとても例の「証拠がなければその存在を信じることができない」とする主知主義(厳密には実証主義)の立場から見れば、ただちに否定されるべき性質のものであるが、しかしながらジェイムズの基本的立場にたって考えれば、彼の一つの哲学的帰結であったのである。
 たしかに、脳髄の転移機能説はそのはっきりした証拠を示しているとは言えず、脳髄がどのような機能をもっていて、生産機能説よりも転移機能説の方がより実際的な効果を与えていると考えられたのである。私の思うに、この転移機能説はジェイムズの哲学である「プラグマティズム」によって精神的に支えられているとも判断されるのであるが、彼自身は別な形でこの説を採用する利点をあきらかにしている。すなわち、意識が舞台裏ですでに世界と同時代的にあるとする一般的な観念論的哲学とつながっている点、心理学で言う「閾」の問題とつながってる点、その結果生産機能説では説明できない心霊現象などの諸現象が合理的なものとして説明できる点などである。
 この指摘は不滅の意識の存在を媒介にして心霊現象の合理性をわれわれに納得させようとするこじつけのようなものと受けとられかねないが、このことに関していえば、ジェイムズにとって心霊現象そのものの有価値性が問題になっていたのではなく、それを彼なりの理屈でもって名誉回復することによって、現実的な生のボルテージを高めることが問題であったと私は理解したいのである。
 その意味でジェイムズにとっての不滅の意識の存在の確信は、それを信じることによってわれわれになんらかのよりよき実際的結果がもたらされているとするジェイムズ独特のプラグマティックな信念に根拠づけられていたのである。あるいは心霊現象の価値もまた、なぜにそれが生じたかという方面から導出されたのではなく、それによってなにがえられたかという方面から導出されていたのである。

Ⅴ 心霊現象の実在性

 結論的に言って、われわれはここにおいてジェイムズの考えの一つの特徴を見ることができる。ジェイムズが心霊現象に関心をもっていたのは彼の学問的姿勢からである。彼がこの問題に興味を示していたのは、「科学におけるスポーツマン的なフェアプレーに対する彼の愛によって」
(20)なのである。従って、ジェイムズは心霊現象そのものに対して直接的且つ積極的に結論を下している、という風には私には思えないのである。彼はただ心霊現象という間違いもなく存在している(と彼は確信している)事実のもつ意味を軽々しくは受けとらなかっただけであり、その事実を契機にして生まれてくる人間の不滅性の考えがわれわれの生にとって一つの有効的な仮説であることを言っているだけである。そしてその仮説が真理そのものであるかどうかは将来の問題にまかせられていると彼は考えていたのである。
 だが、その仮説が実際的な世界では一つの真理性をもっていることは彼の真理論からも察知されるだろう。われわれはジェイムズが心霊現象に関心をもっているというただそれだけの理由で奇異の目を向ける必要はない。なぜならば心霊現象とは人間的経験の一つの姿であり、超自然的様相をもったきわめて異常な現象でもあるが、それでも人間によって経験せられない超越的な現象ではないからである。ある意味では、人間の不滅性を保証する対象、すなわち霊魂とは、ジェイムズにとって丁度宗教的経験においてわれわれが想定するところの神のようなものであると言ってもよいだろう。
 もっとも、それはジェイムズが思いうかべる神ではある。ジェイムズにとって神とは全く人間的なものなのであり、われわれの経験的対象以外の何ものでもなかったことからすれば、
(21)この霊魂も人間の生を鼓舞するもの以外のなにものでもないと考えるのは容易であろう。それ故われわれはここで冒頭においていかめしく主張したところの、心霊現象が神秘的なものであるという考えを撤回しなければならなくなるだろう。なぜならば心霊現象はあきらかに経験的事実であるからである。
 しかし、逆に心霊現象が神秘的であるとするのならば、ジェイムズの本音でもあるところの事実そのものを神秘的とする考えに立たねばならなくなるであろう。いいかえれば心霊現象が神秘的であるというのは、事実そのものが神秘的であるという意味において正しいのである。実際のところ、われわれはこの内のどちらかに基づかなければならないわけであるが、これら二つの考えは相反するものではなかったのである。
 このことは何を意味するのであろうか。心霊現象は知的には不可知な現象であるという意味においては神秘性をもつかもしれないが、われわれの信念と結びついた一つの実在的対象であり得るという意味においては神秘的でもなんでもなく、むしろそれらの現象がわれわれの心的生活の特殊な要素を浮きぼりにし、普通の状態ではあきらかにされない事実の本質を示してくれているという意味においてわれわれに実在的なものであったのである。
 以上の論述からもあきらかなように、ジェイムズの心霊現象に関する考え方は彼の宗教に対する考え方と同じ思考パターンに従っている。宗教が個人的体験にうらうちされた「生に対する人間の全体的反応」
(22)であるように、心霊現象は人間の心的生活の誇張された部分であるが故に、生の躍動性を最も端的に示している一つの反応である。宗教が自分自身の危険をかけて自らの生の充実を意図するかわりに、他のなにものによっても干渉されえないように、心霊現象もそれを体験する人以外の人間によって単なる神秘性の故をもって無視される必要はなかったのである。いいかえれば心霊現象を見る能力のない者としてのわれわれであるならば、それに寛容的に接しなければならないとジェイムズは言っているのである。
 ここからわれわれはどう考えるべきであるのか。なるほどジェイムズは彼の心理的能力を駆使して、一応死後の世界におけるわれわれの意識すなわち不滅の意識の存在について認めようとする努力をしている。だがいかにその努力が報われようとも、その意識が客観的な存在として現実のわれわれの意識の中に保証されていると判定されえないのも事実なのである。そうであるならば、むしろそれにもかかわらず、なぜにその努力をなすのであるかという人間の心情の問題に還元したとらえ方の方をわれわれは重視すべきであろう。この心情の現実的なあらわれが心霊現象に対するわれわれの素直な態度となっていると見なされるべきであり、それは、われわれが祈らざるをえないから祈るのであるというジェイムズの祈りについての考え方と同様に、人間的生活にとって実際的な価値をもっていたのである。
 そしてわれわれが心霊現象を体験しなかったとしても、われわれはそれについてジェイムズの考える以下の観点にたって対処すべきであろう。「存在の心はわれわれの貧しくて狭い心が示すような拒絶の考えをもつはずがない。他の生命の内的意義はわれわれのあらゆる共感と洞察を凌駕する。もしわれわれがわれわれ自身の生命の中にそれの永遠性を自発的に要求させているところの一つの意義を感じるならば、他の生命によってなされる同様の要求がいかに多く、またいかにわれわれにとって非理想的に見えようとも、少なくともその要求に寛容的であろうではないか。われわれはその根拠を全く感じることのできない異なる要求について都合よく決定することができないが故に、その根拠をわれわれが直接的に感じるところのわれわれ自身の要求に対しては、とにかく逆の決定をしないでおこうではないか。」
(23)

 Ⅵ 結語

 さて、われわれはウイリアム・ジェイムズの考え方をもとにしながら、心霊現象に関する一考察を行ってきた。もとより心霊主義者にすれば、これまでの論述は納得いかないばかりか、冒涜の感さえ覚えるかもしれない。なぜならば、本章が心霊現象を積極的に認めるなんの実証も行っていない上に、心霊主義者に寛容的になり、彼らの好きなようにさせておけばよいとでも考えているかのような傲慢さを感じさせかねないのである。たしかに、本章には私の先入観と未熟性があって、報告や観察による間接的体験しか素材とされていないことにもよるのだろうが、心霊現象が、あるいはエクトプラズムが直接体験されたならば、私のジェイムズ論も変わっていただろうことは確かであろう。
 ジェイムズと私との決定的な違いは、前者がいわゆる「心霊現象」の直接の体験者であるのに対して、後者がそれの未体験者であるというところにあろうか。にもかかわらず、私にとっての驚きは、ジェイムズが頑固な心霊主義者にはならず、彼の言う「may-be気質」
(24)で事に臨んでいる点である。その態度の一貫性は私の如き悪しき実証主義者の性急な要請を拒否することもあるわけだが、じわじわと事実の重みと存在の豊饒さを伝える真の経験論者のしぶとさを感じさせている。
 おそらくジェイムズが心霊現象にもアレルギーをおこすことなく、むしろその実在性を積極的に認めさえするに至っているのは、事実の重みと存在の豊饒さを予知する心的構造あるいは彼固有の精神的習慣のようなものが備わっていたからだと思われる。私は、それを「more(より大きなもの)の精神」と言ってもよいのではないかと考えている。
(25)この精神からしてみれば、ジェイムズにとっては、ドイツの哲学者カントが人間の理性を批判して魂の不死を要請したあの心的構造と、心霊主義者が心霊現象を検証しようとする心的構造とは全く同一のものから成り立っていると言われうるだろう。
 そして、この解釈は何も彼が心霊研究家でもある事実を証明するためにのみあるのではないのである。実に、彼の哲学的な「may-be気質」と宗教的と言ってもよい「moreの精神」とはジェイムズ経験論を成りたたしめているところの精神的要請であったのである。彼のプラグマティズムが事物を取り扱う単なる方法論から真理論まで発展していったのも、彼の根本的経験論が事物に臨む単なる視座から形而上学へと突き進んでいたのも、彼の多元論が事物の存在様態の単なる解釈から彼固有の真理論と形而上学を包摂する人間学へと拡がっていったのも、まさにジェイムズの「may-be気質」と「moreの精神」というこれら二つの「心根」にその秘密が隠されていたのである。


(1)とりわけ医学的唯物論者は次のように言うだろう。「ジョゼフはジョゼフであった。頸動脈を切られて血がなくなった。そこでもうジョゼフではない。」(P・グレゴワール『死後の世界』、渡辺照宏訳、白水社、一二頁)
(2)今日では「心霊現象」を「超常現象」と呼ぶ傾向が科学者(心理学者)に起こっている。この超常現象を学問的(科学的)に取り扱おうとするのが「超心理学」で、不思議なことに、現在のソ連においても国家で認められた学問として盛んになってきている。私の思うに、この「心霊現象」に関わる人には三つのタイプがある。第一はそれを心から信じている「心霊主義者」であり、少数だが正統派であるとのプライドがある。第二はそれのすべてを検証しえないが科学的に見てもおかしくはないとする「心霊研究家」であり、ジェイムズはその中に入っている。第三は、それを科学的現象として捉えようとする「超心理学者(Parapsychologist)」であり、現在ではまだ第二のタイプの中の少数者の地位に甘んじている。
(3)中岡俊哉『死後の世界を見た』、二見書房、一六八~一六九頁
 ついでながら言えば、心霊現象と言われるものにはいろいろあるので、この著者の言明のみに従うわけにはいかないことは私も了解している。しかしこの著者の言明は直截的であいまいさがないという意味で私の論述上、最も効果的な素材となっているので借用させていた出した。
(4)福来友吉『透視と念写』の冒頭部分で述べられた言葉である。これについては復刻なった同じ彼の著『心霊と神秘現象』(心交社、昭和五七年)の解説研究編を参照せよ。
(5)例えば、彼は第一編第二章で、「心霊現象に関係を有する学説」は数多くあると言っているのであるが、その中の代表的なものとして心霊主義、秘力主義、神秘主義をあげている。そしてそれらについて心霊現象は霊魂不滅説をとなえ、秘力主義はMetapsychismとも言い「普通の精神の奥に潜み居る不思議の力」を認める立場に立ち、神秘主義は宗教的神秘意識のある種の認識能力を重視していると主張する。しかし本章においては、それらについて厳密に区分して考えられておらず、随意、文脈に従ってとりあげられている。
(6)この有名は協会は一八八二年に最初の科学的意図でもって設立された権威ある組織である。恥ずかしくも私はそこからでている会報をつぶさには読んでいないのでコメントする資格はないのであるが、後述のジェイムズの『心霊研究がなしとげたもの』によれば、その目的は二つあり、「一つは催眠現象の問題、霊媒、透視その他に関する体系的実験を行うことであり、二つは、幽霊、幽霊屋敷および偶然に報告されるが、そのはかない性格から入念なコントロールをする余地のない類似の諸現象に関する証拠を集めること」(W.B.,p.304)であったと言う。因みに本書の第二部第六章に登場したベルクソンもこの協会の会長を勤めたという。
(7)G.Murphy & R.O.Ballow;William James on Psychical Research,The Viking Press,1960,(abbr.James on P.R.),pp.327-328
 尚、同書には本文に紹介した三論文の他、ジェイムズの心霊現象に関する著述、書簡が多数収められている。
(8)James on P.R.,p.328
(9)M.S.,p.195
(10)ここで存在の自明性と言われるものはあきらかに主知主義によって権威づけられたものである。前述の福来友吉博士は『心霊と神秘世界』の中でかかる主知主義を次のように批判して自説を展開する。「理知主義(主知主義)の謂ふ認識なるものは人間の霊のほんの上皮の浅薄なる働きにすぎぬ、精神統一して三摩地に入ると、神秘智が働き出して認識以上の認識をする。即ち眼によらずして一切を見、耳によらずして一切を聞き、手を延ばさずして物に触れるという神通の働きをなすのである。それで理知主義の認識論から見て認識超越の不可知の世界も神秘智から見れば可知の世界である。明目者が盲目者の全く知らぬ世界を見て居るやうに、神秘智を得た人は理知主義の認識者の全く知らぬ世界を認識しているわけである。」(二頁)
(11)W.B.,p.300
(12)V.R.E.,p.45
(13)M.S.,p.204
(14)ibid.
(15)W.B.,p.51
(16)H.I.,p.10
(17)ibid.,p.13
(18)ibid.,p.15
 尚、附言すれば、この考え方はジェイムズの「多元論的宇宙観」の応用されたそれと言える。ある事実の一元論的解釈はそれの実在性を真に伝えてはいないし、その解釈にこだわると必ず破綻が生じるとするジェイムズの確信のあらわれでもある。
(19)ibid.,p.18
(20)W.B.,p.xix
(21)誤解をおそれずに言うならば、ジェイムズにとっては神は人間に利用されるために存在するにすぎなかったのである。「普通の人間の宗教的生活においては『神』は事物全体の名前では断じてない。それは自分の目的に協同しようと呼びかけ、その目的が価値あるならば、われわれの目的をおしすすめてくれる超人として、信じられた事物における理想的傾向の名前にすぎないのである。(P.U.,p.124)と彼は言う。
(22)V.R.E.,p.35
(23)H.I.,pp.44-45
(24)これについては本書第二部、第五章、一二三頁を参照せよ。
(25)これについては拙著『ジェイムズ経験論の諸問題』、一八九頁あるいはV.R.E.,pp.506-507を参照せよ。

〔付 記〕
本書を作成するにあたり、注にはジェイムズの著書を除いては四点の文献しか記載していないが、心霊主義者、心霊研究家あるいは超心理学者の数多くの文献のお世話になっている。あきらかに本書は彼らの考え(霊とでも言うべきか)を地平にもっているのである。

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